『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』

【成立の背景】

佐渡流罪中、文永(ぶんねい)十年(1273)4月25日に「日蓮当身の大事」として書かれたのが本書である。聖人は『寺泊御書』のなかに、「唯経文ばかりなり」との批難に対する回答として著された。

【題意】

如来滅後五五百歳始とは、@「観心と本尊」A「観心の本尊」の二種の理解がある。@は観心と本尊の両方が説かれていると考え、Aは観心は本尊を示すための前提として説かれていると考える。
一般的には『観心本尊抄』『本尊抄』と略して呼ばれる。末法の始めに説き顕わされた最重要の法門の意味である。

【内容】

天台の「一念三千(いちねんさんぜん)の法門」を基(もと)として、お題目の修行や成仏を明かし、さらに本尊の姿を示された。そしてこのお題目と本尊は、末法の衆生の為のものであるとして結ばれている。
本文は、法華経を信仰すれば、仏の功徳が自然に譲り与えられるので成仏できると説く。

【理解のポイント】

法華経の教えを信じ、お題目の信行に励むことで、釈尊因果の功徳が自然に与えられる。これを実感することが、お釈迦様の誓願に応えることであると知らなければならない。

【直筆】

千葉県中山法華経寺聖教殿にある。


如来滅後五五百歳始観心本尊抄』   昭和定本日蓮聖人遺文

釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう。四大声聞の領解に云く、無上の宝珠求めざるに自ずから得たり云々。我等が己心の声聞界なり。我が如く等しくして異なることなし。我が昔の所願の如き、今已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ。妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや。

現代語訳

お釈迦さまが、(修行をして成仏を得るまで)因行の功徳と、(一切衆生を成仏に導く)果徳は、妙法蓮華経の五字即ちお題目に全て具(そな)わっている。
私たち凡夫がこのお題目を信じ、口に唱え、教えを実践すれば、お釈迦様の功徳が自然と譲り与えられ、成仏することができるのである。
信解品に、声聞達の言葉として「私たちは、これ以上ない最高の宝珠を、あることも知らず、求めようとも思わなかったのに、お釈迦さまのおかげで自(おのずか)らに手に入れることができました」と説かれている。これは私たちの心の中に備わっている声聞界のことである。
(方便品には)「私と等しくして異なるところがないように、という昔の願いは(法華経を説いたことによって)今、すでに満足した。すべての人々を教化して仏道に導いた」と説かれている。
(一たびお題目を唱えれば)妙覚のお釈迦さまは、私たち凡夫の血肉となり、その因果の功徳は、骨髄として私たちを支えるではないか。

【用語解説】

因行果徳・・・因行とはお釈迦さまが成仏に至るまでの菩薩としての修行をいう。果徳とは成仏後の衆生教化の功徳のこと。

妙法蓮華経の五字・・・妙法蓮華経とは法華経というお経の題名であると同時に、その内容のすべてである。いわゆるお題目・南無妙法蓮華経のこと。

四大声聞の領解・・・四大声聞とは摩訶迦葉(まかかしょう)・須菩提(しゅぼだい)・目連(もくれん)・迦旃延(かせんねん)の四人のこと。領解とは、自分の理解したお釈迦さまの教説を申し述べること。古来声聞は成仏できないとされてきたが、法華経に至ってその代表である舎利弗に成仏が許されたことで、思いもよらぬ喜びであると感謝し、教説の理解をお釈迦さまに申し上げたこと。

無上の宝珠・・・経文には「無上宝珠不求自得」とある。これに対応する文として本文に「因行果徳・・・自然譲与」がある。無上の宝珠は因行果徳、不求自得は自然譲与を証明する経文として引用された。

己心の声聞界・・・一念三千(いちねんさんぜん)という教えを、十界互具(じっかいごぐ)から理解するのが日蓮聖人の立場である。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界それぞれに他の九界が具(そな)わっている。前の経文は、私たち凡夫の心に具わっている声聞界の成仏を示している。このことは、私たち自身の成仏でもある。

妙覚の釈尊・・・一切の煩悩(ぼんのう)を滅した最高の覚り。

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